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■八日目の蝉 

『八日目の蝉』 角田光代

逃げて、逃げて、逃げのびたら、私はあなたの母になれるだろうか…。東京から名古屋へ、女たちにかくまわれながら、小豆島へ。偽りの母子の先が見えない逃亡生活、そしてその後のふたりに光はきざすのか。心ゆさぶるラストまで息もつがせぬ傑作長編。第二回中央公論文芸賞受賞作。(アマゾンより)



最初から最後までぐいぐい引き込まれて、気づいたら読み終えていた。
この作者にしてはそういう作品は珍しい気がする。
普段あまり小説の分類とか考えずに読んでいる(というか最近はボーダーレスになってる気がするが)んだけど、この小説はそういう意味ではエンターテインメント色が強いのかもしれない。

面白いのは、前半の主人公である希和子が、逃亡する先々で疑似家族を形成しているところ。
最初に飛び込んだ女の家でも、次のエンジェルホームという団体においても、捕まる直前までいた久美の実家においても、何かしら家族のような関係を築いている。
まあそもそも、連れて逃げている子供でさえも、実の娘ではなく、誘拐してきた他人の子なんだけど。

対して、後半の主人公・恵理菜は、実の家族の元に帰ってきているにも関わらず、その家庭の中に居場所が見つけられず苦しんでいる。
家族や、自分を誘拐した女を憎むことでしか、自分自身が救われないと思っている。
それでも結局最後には、家族に対しても誘拐した女に対しても、許しのような気持ちで対峙することが出来るようになる。

その対比によって浮かび上がる家族観のようなものが、結局作者の言いたかったことなんだろうなと思った。


あと、印象に残ったのが、小豆島の風景。
希和子にしてみれば、いつ見つかるか気が気でない上に、偽りだらけの生活の中での疲れもあっただろうけど、だからこそ島の風景の美しさ、人々の温かさが心にしみ入ったのではなかったろうか。
都会は冷たくて田舎は温かい、なんていうチープな二元論もどうかとは思うが、この小説に出てくる小豆島の美しい光景は、確かに希和子の心を癒し、あるいは勇気づけたのだろうなと思えてくる。

最後の小豆島へ向かうフェリー乗り場でのシーンが、切ない中にもどこか希望の残るものとなっており、とても鮮やかに心に残ったのも、その辺りに由来するものがあったのだろう。






八日目の蝉 (中公文庫)八日目の蝉 (中公文庫)
(2011/01/22)
角田 光代

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並行読書 

以前ある人に、本を読むときは何冊か並行して読むという話をしたら、かなり驚かれた。
その人は一冊の本を読み終えるまで他のには手をつけないらしい。

自分は大抵2~3冊の本を並行して読む。
それも、小説とエッセイなどのように、全くジャンルの異なる本を。

それは活字中毒だからというわけでは決してなく、単に集中力が続かないからである。
例えば展開が早くぐいぐい引き込まれるミステリなんかだったら一気に読むのだけど、くどくどと人物の内面を描写してる文学ものなどは、どうしても途中で集中力が途切れ、気づけば字面だけを追っていて、中身が何も頭に入って来ない状態に陥っていたりするのだ。
決してその小説が面白くないわけじゃないんだけど、どうしてもそうなってしまう。
エッセイもまたしかりで、気づいたら漫然とページをめくっていたなんてことがよくある。

そんな時、別の本を手に取ってみると、ちょっとした気分転換になっていいのである。
読書の気分転換に読書をぶつけるという、ある意味毒をもって毒を制する状態なわけだ(たぶん違う)。

ちなみに今も二冊の本を並行して読んでいる。
角田光代の小説『八日目の蝉』と片桐はいりのエッセイ『わたしのマトカ』。
どちらもかなり面白いのだけど、『八日目の蝉』はエンターテインメント性が強く、展開も派手っぽいので、もしかしたらこちらに集中することになるかも。

ちなみにこの『八日目の蝉』、現在映画が公開されているけど、どうなんでしょう。
まだ100ページほどしか読んでないけど、一本の映画に収まるボリュームじゃ明らかになさそうな感じ。
まあ、そちらは機会があれば観てみようかなと思います。




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